自分はあの水を身の内に取り入れたのだ。
何か見えない液体に全身を包み込まれるような錯覚。体内を、濁った異物が血液に乗って流れ巡るような不快感。
「う… っ」
美鶴は両手で口を抑えた。吐き気とも違う、腹の底に何か不気味な、汚泥のようなものが凝っているような気がする。集中すると、鼻先から生臭い匂いが漂ってくるかのようだ。
美鶴は立ち上がった。
「どうした?」
驚いて瑠駆真も立ち上がる。
「美鶴、どうした?」
「なんでもない」
「そんな真っ青な顔して、何でもないワケないだろ」
語調を強めて伸ばされた瑠駆真の手から逃れるように、美鶴は身体を捩った。そうして、そのまま寝室へ。
気分は悪いが、吐きたいのとは違う。
寝室へ飛び込むと、そのままベッドへ突っ伏した。まるで全身を浄化するかのように、思いっきり息を吸う。だが、それでも気味の悪いさは消え去らない。
忘れろ。
言い聞かせるのに、頭に浮かぶのは緑の液体。突っ込まれた顔面から皮膚を通して体内に侵入してくる。
両手で顔を覆う。
あの液体が、今、自分の全身を駆け巡っているのかもしれない。
嫌だっ 気持ち悪いっ!
布団に強く顔を押しつける。いつの間にか震えていた歯が唇を噛み切る。痛みに眉をしかめ、右手で口を拭った。血が指に線を引く。口内に広がる鉄のような味。
この血の中に、あの水が混ざり込んでいるのかもしれない。
虚ろな瞳で指を見つめる。
この血は私の血だ。お母さんと、そしてどこの誰かもわからぬ男との間に産まれた私の血だ。
美鶴は、全身に寒気を感じた。
そうだ。私はそういう事情で産まれてきたんだ。だったら、この血の中に、母を犯した男の血が混ぜ込まれているという事になる。
途端、身体の奥底から、なにか得体の知れない化け物が這い出してくるかのような醜感に襲われた。
血の中に潜んでいた見たこともない男の遺伝子が、まるで種のように自分に植え込まれ、寄生し、芽吹き、ものすごい勢いで全身に繁茂していく。緑色に濁った不気味で醜悪な生き物が、自分の身の内で大きくうねる。
おぞましい。
うつ伏せる美鶴の耳に、同級生たちの声が響く。
「なんて汚らわしい生徒なのかしら」
自分は、本当に穢れているのか。
我慢できずに再び両手で押さえようとする口を、突然何かに力強く捉えられた。
長い指が顎を掴み、有無を言わさず横向けにされる。声も出せずに目を見開く。だが、その目が何かを見る前に辺りに広がるのは、甘気。
甘いが粘るような甘さはなく、どこか清涼感も含んでいる。
胃から胸に漂う悪臭の錯覚から逃れようと、大きく息を吸った。
あぁ いい香り。
目を閉じ、堪能する。少しずつ気分が落ち着いていく。強張っていた身体から、少しずつ力が抜けていくようだ。
どこかで嗅いだ香りだけど、どこだっけ?
記憶を手繰りながらゆっくりと開いた視線の先で、黒々とした瞳が揺れる。
「大丈夫?」
心配そうな瑠駆真の言葉にも、美鶴の視線はまだぼんやりと虚ろ。
「美鶴?」
「? 瑠駆真?」
呆けたままの瞳を動かすと、美鶴の鼻先に差し出された掌。少し濡れている。
「シャンプーだよ」
美鶴の視線を受け、瑠駆真は優しく笑った。
「気分が悪そうだったから」
言いながら、ゆっくりと手を引っ込める。
「洗面所へ向かわなかったから、吐くほどではないんだろうと思ったけど、でも顔色が真っ青だった。口を抑えてるから気持ち悪いんだろうなと思ったんだ。そういう時は冷たい空気を吸うとか、良い香りを嗅ぐと、気分が落ち着く」
最初は美鶴の母である詩織の香水でもないかと、洗面所へ向かった。だが、毳々とした瓶の装飾に、躊躇った。
「あまり刺激が強すぎるのもどうかな? と思ってね」
何かよいものはないかと探す瑠駆真の目に、バスルームが映った。扉を開けて、目についたシャンプーを手に取った。
「良い香りだね」
掌を自分の鼻先に近づけ、美鶴の顔を覗き込む。
「大丈夫?」
美鶴は無言で頷く。
「まだ、気分悪い?」
今度は横に首を振る。
瑠駆真の目にも美鶴の落ち着きが見える。表情からも先ほどまでの幽霊のような蒼白さは消えているし、体調が改善しているのは確かなようだ。
瑠駆真は床に付けていた膝を立て、美鶴を驚かさぬようゆっくりと立ち上がった。
「少し横になるといいよ」
そう言葉を掛け、自分はシャンプーで濡れてしまった手を洗いに洗面所へと向かった。
掌の滑りを流水で洗い流す。
良い香りだな。
控えめに立ち昇る香りに思わず表情を緩め、だが少し首を捻る。
でも、ちょっと変わった香りだな。
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